前回と比較して、およそ半分の間隔での更新となり安堵している筆者である。果たして次の更新は、何年後になることやら。
軽口はさておき、角道を止める従来通りの四間飛車の近況についてであるが、取り立てて目ぼしい変化は見られない、といった感が強い。
かつてはタイトル戦においても、羽生-谷川といった名物カードで後手が飛車を4筋に振り、居飛車が急戦や穴熊に構えるといった場面が当然のように見受けられたものである。
現在で対抗形といえば、ゴキゲン中飛車か角交換振り飛車、あるいは石田流といったところが相場であろう。「どの筋にいようと、振り飛車はみんな友だち」(
『石田流を指しこなす本【急戦編】』
P243より引用)という言葉通り、無論それらの棋譜も四間飛車を指す際には大いに参考になるわけだが、序盤の細かい手順や定跡に関しては不勉強なため、筆者にとっての見どころは中盤以降、という場合がほとんどである。
『振り飛車最前線 四間飛車VS居飛車穴熊』
、及び最新刊の
『堅陣で圧勝! 対振り銀冠穴熊』
なども興味深く拝読させて頂いたが、実戦で棋書通りの局面になるかといえば未知数な部分も多い。仮に社団戦で相手が銀冠穴熊模様を指向したら、第11回朝日杯将棋オープン戦一次予選の井出-鈴木アマ戦を参考に、右玉風の陣形にでも組み替えるつもりだ。
然り。時代はノーマル四間飛車ではなく、右玉である。
先日行なわれた第75期名人戦七番勝負第4局において、後手番となった佐藤天彦名人は一度4二に上がった玉を7筋に移動させ、馬付きの堅陣を活かして稲葉陽八段の穴熊を粉砕し快勝した。そして本日(6月17日)、第88期棋聖戦五番勝負の第2局でも、挑戦者の斎藤慎太郎七段は△7二玉型の、筆者にとってはおなじみの構えで羽生棋聖に相対している。
コンピュータ将棋が△6三銀(▲4七銀)型の駒組みを高く評価していることもあり、角換わり腰掛け銀模様から後手が変化することが多い、という背景事情があるとはいえ、まさかタイトル戦の大舞台に、短期間で立て続けに右玉が登場するとは夢にも思わなかった。
最近では第58期王位戦挑戦者決定リーグ紅組の最終局(木村一-澤田戦)、あるいはアマチュア棋戦に目を向ければ、第40回朝日アマチュア将棋名人戦三番勝負にも右玉は登場している。そのどちらもが右玉側の勝利に終わっており、非常に勝率が高いように思えるのは、筆者の身贔屓であろうか。
矢倉に代わってツノ銀型の雁木などが流行の兆しを見せ始めているようだが、その構えから玉を右に配置するのもやはり有力、と個人的には考える次第である。読者諸兄姉に置かれましても、プロの実戦や
『右玉伝説』
・
『南の右玉』
、及び
『とっておきの右玉』
(肝心の著者は朝日杯将棋オープン戦で怪しげな対抗形の将棋を制したが)といった数少ない棋書を参考に、この機会に右玉を試してみてはいかがだろうか。自玉が薄く心細い思いをするのと引き換えに、受けの力と攻めを切らす(余す)技術が習得できること請け合いである。
スポンサーサイト
この文章を書いている時点でまだ最新号(10月号)を読んでいない。そんな筆者に語る資格があるかどうかはさておき、最近の『将棋世界』には懐古趣味的な雰囲気が漂っているように思われて仕方がない。
その良し悪しはさることながら、日本将棋連盟のページで見た今月号の表紙には大きく「丸田祐三九段、陣屋事件を語る」の文字が躍る。また付録は先月に引き続き「大山康晴 忍の一手」である。数十年前の話題を大々的に振り返るこうした姿勢に、違和感を覚えるのは筆者だけであろうか。
瀬川アマのプロ編入試験六番勝負を例に挙げるまでもなく、将棋界はファン拡大、普及に向けて改革を進めるべき時期に来ている。その真っ只中に懐古趣味的な記事を大書きにして前面に押し出すというのは、賢明なやり方とは到底思えない。少なくとも表紙に大きく取り上げるべきは瀬川アマの二戦目勝利、ないしは羽生四冠対佐藤康光棋聖の十七番勝負関連の話題ではないだろうか。
ここで終われば本文の主題は明確なものとなるのだが、問題が一つある。それは先に挙げた丸田九段の記事や大山先生の付録の内容をとても面白い、と筆者が感じていることだ。客観的に見ても筆者は将棋ファンの中でもかなりコアな部類に入ることは間違いないが、そうした者にとっては戦後間もなく、ひいては戦前にまで遡る将棋界の知られざる秘話といった題材は魅力的というわけか。
米長新会長は先月の『将棋世界』誌において、巻頭雑感と題して就任演説めいた文章を寄稿している。その中に「ファンの声を大事にして、普及部と連動しての誌面作りを目指します」「将棋世界はプロの雑誌ではなく、アマチュアに支持され、読んでもらうための工夫、努力をして参ります」とあるが、その結果が懐古趣味的な特集記事に結びついたのか否か。事の真相が気になる次第だ。
新聞の観戦記でも触れられていたが、振り駒の結果を歩が何枚、と金が何枚というように記録用紙に記入することが義務づけられた。一局の将棋において先手を得るか後手となるかは、プロにとってはまさに死活問題。その統計を厳密に取ろうという狙いらしいが、いささか証文の出し遅れという感は否めない。
そもそも振り駒という手法そのものが、考えようによっては人の手によって意図的な操作がある程度可能ではないだろうか。振るものは違えど、賭博小説や漫画などにはサイコロで意のままに出目を操る設定が頻出する。それが将棋の駒になったと考えれば至難の技とはとても思えないだろう。
第三者的立場にある記録係が振り駒を行なうプロはさておき、アマチュアにおいては対局の当事者、主に上手が駒を振ることがほとんどである。ある程度イカサマの訓練を積む、歩が出やすいように細工された駒を自ら持参するなどの姑息な企みによって、先手を引く確率を上昇させる輩がいないとも限らない。
幸いにしてと言うべきか、コンピューター将棋においては以上のような問題は皆無である。先後の決定はプログラムの管理に委ねられ、両対局者の力と思惑の一切関係ない次元で決定される。ネット上を主たる対局の場に選んでいれば、むしろ振り駒という行為に馴染みがなくなるであろう。
筆者などは逆に、何の前触れもなく先手後手が決まることに違和感を覚える。サイコロを振りどの箇所から杯を持ってくるかまで再現することの多い麻雀ゲームと同様に、コンピューター将棋でも歩を五枚振るという儀式を何らかの形で対局開始前に表示して欲しいというのは少数派の意見なのであろうか。
四間飛車という戦法は先後どちらでも用いることができ、かつそれほどの差は生じない。相手との相性いかんによっては後手が欲しいと願うことすらある。かかる理由により先手後手の問題には比較的無頓着な筆者が述べるのもお門違いだが、冒頭の統計により歩は構造上の理由から表裏いずれかのほうが出やすいなどという結論が導き出されてしまえば、それはそれで問題なのではないだろうか。
もちろんこれまでも新聞の将棋欄には目を通してきた。振り飛車系統の将棋ならば熱心に読み、果ては切り抜いて保存することもあった。しかし今現在、筆者はかつてないほど観戦記に注目している。
とは言っても現在掲載されているものに対してではない。既に総譜を知っており、また筆者なりにあれこれ愚考してみた対局に関して、今後観戦記ではどのような結論が導き出されるのか、それが楽しみなのである。
読み手としては特殊なスタンスの部類に入るかもしれない。しかしネットによる中継などの普及により、リアルタイムで棋譜が手に入りやすくなった時代、観戦記のあり方も変わってくるのではないだろうか。
そもそも良い観戦記とは何か。その定義づけは難しく、人によって様々な意見があるのではないだろうか。自分で将棋を指すというより棋士のファンとしての色合いが濃い者にとっては対局中の仕草などが活き活きと書かれていることが重要であろうし、有段者にとっては指し手の解説が隅々まで行き届いていなければ不満に違いない。
筆者個人としてはやはり後者に重きを置きたい。速報性に対抗し得るのはやはり時間をかけた詳しい内容の検討であろう。もちろん解説ばかりで無味乾燥なものに仕上がるのも読み物としてはつまらない感があるが、やはりどこで勝敗は決したのかを詳しく述べるのが最優先事項ではないだろうか。加えて先に挙げた二つ以外にも観戦記の面白さとして様々な要素が考えられるが、それら複数、ひいては全てを盛り込むことは不可能ではないはずだ。紙面のスペースが限られているという制約と戦わねばならない事情も、文章を書くことによってたつきを得ている観戦記者としては、厳しい見方をすれば言い訳とも思える。
観戦記ではなく自戦記であったが、肝心の将棋はおろか対局風景にも言及せずに己の主張ばかり繰り返すようなものも最近見受けられた。それは論外としても、改めて読んでも速報で得た情報と大差ない、そのような観戦記では自らの存在意義を自ら否定することになりかねない時勢であるのは間違いないだろう。